さて、おたちあいっ!
時は、天明七年(1787)、五月二十日。
深川六間堀町の裏長屋に住む、桃燈張(ちょうちんはり)職人
彦四郎ほか七人は、
深川森下町に手広く米・乾物類を商っていた伝次郎の門
をたたき、施米を要求します。
この時、応対に出た手代が
「あいにく、主人は留守にしており明朝までまっていただきたい」と、
申したところ、...
かねての手はずどおり
八人の者がいっせいに家の中に踏みこみ、
建具や家具をさんざんに打ち壊して引き揚げた。
これが「天明の打ちこわし」のプロローグです。
深川とほぼ同時期に、本所、赤坂、四谷、青山でも
打ちこわしが起きました。
以後二十四日にいたるまで、昼夜の別なく
「南は品川、北は千住、凡(およ)そ御府内四里四方の内」
余すところなく、米屋はもちろん、
富商の家々も次々に打ちこわされました。
打ちこわされたのは、米屋だけでも九百八十軒に
およんだそうです。
また打ちこわしの参加者数は、じつに「二十四組五千人ほど」
という大規模な騒動でした。
そして、この騒ぎは、幕府の御先手組(さきてぐみ)十組の出動により
二十五日に、鎮圧されます。
この十組の内、一組の先手頭(さきてがしら)
として長谷川平蔵がいた。
先手組は、弓組九組と鉄砲組二十組がありました。
(他に、西の丸先手として弓組二組、鉄砲組四組があります)
各組の司令官である先手頭は、それぞれ与力六~十騎(人)
同心三十~五十人を従える、いわゆる中間管理職です。
*役高(職務に対する俸禄)は、千五百石。
この先手組の一組は、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)として
江戸市中の防火と警察の任務を担った。
平蔵は、天明七年(1787)九月十九日、火付盗賊改に任命されたが
これは、当分加役という、冬場だけ本役に追加される役務です。
翌八年四月二十八日の当分加役の任を一旦解かれ
十月二日、今度は、本役を仰せつけられる。
寛政の改革が開始されていた(前年六月)ので
松平定信が行った人事です。
平蔵は、幕府内では、評判が良くなかったが
不思議なことに町方で受けがよかったのが理由で
定信が「平蔵なら」と、任命したようです。
事件に対する対応が早く、身銭を切ってまで町方の
協力者に、出前のそばなどおごったり
配下の同心に、賄賂を受け取ることを固く禁じたが
部下への飲食の施しも欠かさなかった。
役高千五百石と言っても、小遣いが増えた訳でなく
役職に応じて出費はあり、
本来、平蔵は、家禄五百石の旗本で
決して裕福じゃない。
そこで、平蔵は、銭相場に手を出し
そこからのもうけを、部下へ、町方へ
また、乞食への慈悲として、出費していた。
また、火事現場に、自分の紋を書いた
高張提灯(たかばりちょうちん)を何本も立て
「平蔵ここにあり」と示し、現場の混乱を押さえる。
こう言った行為は、...
町方や、池波正太郎作「鬼平犯科帳」の読者からは
やんやの喝采をあびるが
スタンドプレーとして
同役ばかりでなく、松平定信の反感をかったようです。
定信の自伝「宇下人言(うげのひとごと)」に、石川島の
人足寄場によって、無宿者が減った事を平蔵の功績と讃えつつも
「この人、功利をむさぼるが故に
山師などという姦(よこしま)なる事もある由にて
人々あしくぞいう」
と、書き残しています。
ただし、平蔵は、長谷川なにがし書かれ
定信が平蔵を嫌っていたことは、明らか。
エリート旗本にとって、目標は「勘定奉行」か
「町奉行」になること。
平蔵の父も、京都町奉行を務めた。
また、平蔵自身、町奉行に最適だと
信じていたようです。
寛政五年七月、松平定信は、老中首座の地位を追われ
寛政の改革も中止されます。
そして、翌六年十月二十九日
幕府は、平蔵に、長年の火付盗賊改勤めの功労を認め
時服(じふく)を賜う。
時服:将軍から下賜されたその時候にふさわしい衣服。
自分を嫌っていた定信は、幕府の中心から外れ
「さぁ、これから自分の時代が来た」
「次の町奉行は私だ」
と、信じたであろう平蔵ですが
寛政七年四月、突然病に倒れます。
さて、ちょと時間となりましたぁー♪
この後は、明日に、....。
参考文献:山本博文「旗本たちの昇進競争」、西山松之助「江戸っ子の生態」
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