寛政の改革が軌道に乗った頃、ちまたで、こんな狂歌が
出たそうです。
ふんどしが 出たで世の中 しまるなり
松平越中守定信の越中守と越中ふんどしを、かけたんですな。
風紀も正され
倹約もすすみ
旗本御家人の札差しからの借金も棒引きされ
きっちり、世の中はしまりましたね。
しかし、定信は、寛政五年(1793)突然
老中と将軍後見役を辞職します。
成人に達した将軍家斉に、疎まれていたとも
噂されますが、
自分でその空気を感じたのかも知れません。
定信は、罷免された訳ではないので
その後も、ご意見番として幕府内で目を光らせて
いました。
晩年は、白川楽翁と号し、文政十二年(1829)に
72歳でなくなります。
*白川は、定信の領地、福島県白川に由来します。
お墓は、江東区白河の霊巌寺にありますが
このお寺には、六地蔵の一つがあり、また、お隣が
江東区江戸資料館なんですよ。
一方、...
「平蔵が病」の知らせは、将軍家斉の耳に入りました。
平蔵ファンであった、家斉は、自分の常備薬である
瓊玉膏(けいぎょくこう)を、平蔵に分け与えます。
だがしかし、その4日後
平蔵は、寛政七年(1795)五月十日に亡くなりました。
享年51歳。
出世がままならず、酒におぼれたのが原因と
言われています。
もう少し、我慢したら、きっと町奉行になったでしょう。
平蔵の住まいの跡地に、遠山左衛門尉景元が数十年を隔てて
住んだと言われています。
江戸庶民に人気があった、あの名奉行「遠山の金さん」です。
平蔵の気持ちが遠山の金さんに通じたんじゃなかろうか?
そんな気がしてなりません。
ってぇーことで、
三日間費やして、私は、何を言いたいかと、...
えへへ、↓これです。
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