江戸シリーズを、時々、配信いたしまぁーす!
で、今日、明日、明後日と、3回に分けて(予定です)
絶倫将軍の十一代将軍家斉(いえなり)と
鬼平と恐れられた長谷川平蔵の
二人の接点について、お話します。
まずは、
正室のほか16人の側室を持ち
男女合わせて53人の子供をもうけた
家斉(いえなり)から語りましょう。
家斉は、安永二年(1773)十月五日に、御三卿の一橋治斉の
長男として生まれました。
十代将軍家治(いえはる)の嫡子家基(いえもと)が没した後
一橋家から養子に入り、将軍世嗣となったのが
天明元年(1781)の9才の時。
天明六年(1786)九月八日、家治が没し(毒殺の噂あり)
翌年四月十五日、家斉は将軍宣下を受けて
十一代将軍となります。
15歳の時でした。
家斉は、一橋家の長男だった時代
鹿児島藩島津重豪(しげひで)の娘寔子(茂姫)
と婚約しておりました。
寔子は、寛政元年(1789)二月四日にめでたくお輿入れ。
*婚約の後、家基の急逝で、茂姫は、将軍家の
正室になるために、一旦近衛家に養子に入り
名前を、近衛寔子(ただこ)となりました。
ところが、どっこい
正室お輿入れの時
家斉の側室は、すでに赤ん坊を身ごもっておりました。
同元年三月二十五日に、長女誕生!
*結婚の翌月ですよ。
またまた、同二年十月一日、二女誕生!
53人中、もうこれで2人。
しかも、家斉18歳???
この時詠まれた落首が、残っております。
薩摩芋の ふくる間を 待ちかねて
おまんを喰うて 腹はばてれん
*ちなみに、二人を娘を生んだ側室の名は
「於万(おまん)の方」旗本平塚伊賀守為善の娘です。
まぁ、53人のうち何人成人したか存じませんが
この大人数を養う為に、幕府財政を大いに圧迫したのか
測り知れませんよねー。
幕府財政を立て直そうと、寛政の改革行った
松平定信を、事業半ばで、「気に入らない」と
罷免にする、家斉さんってわけで
「彼が、将軍にならなかったら、江戸幕府は、もうちょっと
長く続いたかも知れない」って、...
御三卿筆頭の田安家出身で、将軍になりそこなった
松平定信さんは、きっとそう言うに違いありません。
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