江戸検定の受験勉強に欠かせないのが
実地見聞です。
教科書「江戸博覧強記(小学館)」で得た知識を
右脳に刻み込むには、目で確かめるの一番。
と、言うことで、8(日)の午前中
江戸城に行ってきました。
自宅の最寄り駅、水天宮駅から半蔵門線に乗って
約7分で、九段下まで行きます。
まず、目指すは、北の丸公園。
ここは、武道館があるので有名ですが
あとは、展示会などが行われる、科学技術館が
あるぐらい。
所々に「球技禁止」の立て看板が目立ちますが
だだっ広ーく、なんにもない。
科学技術館の入り口の前の坂を下りると
首都高速の北の丸出口があり
その先を望むと、堀と堀をさえぎる
細い坂道が続き、城門が見える。
これが、北詰橋門です。
「北詰橋門」をどう読むか、ご存じですか?? 答えは、後ほど、....
いま、皇居があるのは、江戸城の一部、西の丸です。
この写真(撮影:やぎ07月08日)はどなたさまもよーくご存じの皇居前広場です。
手前の橋を渡ったところが、皇居正門ですが
江戸では、西の丸大手門でした。
ちなみに、二重橋は、画像の奥にある橋です。どこが二重なのは、後日、お話ししましょうか。
でも、これは、江戸城の正門ではありません。
大手門の先に、本丸があって、そこで政務が行われて
おりました。
ですから、大名、旗本が、登城する際は
大手門から、あるいは、大手門の向かって左(南)にある
内桜田門(うちさくらだもん、桔梗門とも言う)から入ります。
江戸城の本丸は、慶長12年の完成後
何度も火事にあい、焼失と再建をくり返しました。
しかし、文久3年(1863)の火事で
焼失した以降、幕末まで再建されませんでした。
本丸は、明暦の大火(明暦3年、1657)に、天守閣と共に
焼けましたが、万治2年(1659)に再建され、その後
天保15年(1844)に焼失するまで、約200年も
存在しつづけました。
なんか、もったいない、残念な気がします。
さて、この本丸、二の丸跡は、一般に公開されていますが
明治維新以降、ほとんどの門や櫓は、破壊され
「中の門」も、石垣だけが、残っていますが
その石垣の大きさから、さぞ立派なものだったろうと
想像出来ます。
中の門から先、本丸に至るまで
御三家すら、乗り物(駕籠)から降りて
徒歩を強いられました。
こうして、江戸城を、皇居前広場や
大手門当たりから見ると、およそ戦闘を前提にした
要害堅固な城というイメージはわきませんね。
では、ここで、北詰橋門の話に戻します。
この門が、太田道灌が建てた江戸城の大手門だった
と、言われています。
江戸城は、天然の要害を利用した城だったんだなぁー
と、つくづく感心しました。
北詰橋門から入ると、左手すぐに、天守閣の石台が
あり、その前面に、大奥を始め、本丸がありました。
さて、北詰橋門の読み方ですね。
「きたはねばしもん」と言います。
北の要所にある門なので、
勝どき橋のように、はね橋が付いています。
写真で、ごらんになれるでしょ。
安政2年(1855)2月、この北詰橋門の脇にある
矢来門(やらいもん)の柵を乗り越えて、幕府の御金蔵から
4千両を盗んだ二人組がいました。
「四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは)」の題名で歌舞伎にもなっています。
1両を10万円とすると、....4億円かぁー。(汗)
犯人の一人は、日本橋上槇町(にほんばしかみまきちょう)で
両替商を営んでいましたが、
ヤギ薬局東京店のすぐ近所になります。
どっか掘れば、1枚ぐらい小判があるんじゃないかな??
さて、今回は、この辺で、おじゃまします。
江戸検定1級の受験勉強につきあっていただき
大変ありがとうございました。
We need a lot more iinsghts like this!
投稿情報: Alejandro | 2012年5 月 2日 (水) 11:58